橋村物語④

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橋村物語④


橋村は 1924(大正 13)年、33 歳の時、大阪市南区天王寺悲田院町に大阪美術学校を創立しました(6 月開校)。同校の設立は専門学校令に基づくのではなく、私立学校令による各種学校でした。そのため、学歴とは無関係に美術を志す青年に広く門戸を開いていました。

開校当時の教授陣の中心人物は、日本画部は矢野橋村と福岡青嵐、洋画部は斎藤与里の三人でした。橋村は中国由来の南画を得意としていますが、青嵐は日本古来の大和絵を得意としていました。青嵐は熊本県出身で、1903 年(明治 36)に東京美術学校を卒業。一時期百貨店図案部に勤務していましたが、大阪における文化の改革を目的とした研究団体「主潮社」の結成に参加した経緯などから橋村に誘われたと考えられます。

斎藤与里は埼玉県出身で、京都の聖護院洋画研究所で学んだ後、渡仏しました。パリではアカデミー・ジュリアンに通い、後期印象派やフォービズムなど新しい美術に触れて約 2 年半の留学を経て、帰国します。雑誌『早稲田文学』『白樺』『中央美術』や新聞などにゴッホ、ゴーギャン、セザンヌら後期印象派をいち早く紹介する記事を書き、当時の画家を目指す若者たちに大きな影響を与えました。1912 年(大正 1)岸田劉生らとともに、日本における反自然主義的絵画の出発として歴史的な意義を持っていたヒュウザン会(第 2 回展で「フュウザン会」に改称)を結成しました。

1919 年(大正 8)与里はその文筆の才を乞われて、大阪に創刊した『大正日日新聞』に学芸部次長として来阪します。新聞社での記事の執筆だけでなく、文芸雑誌等に美術評論を寄稿していました。新聞社を一年で退職しましたが、そのまま大阪に留まりました。その頃、大阪美術学校設立に協力しました。

また、橋村の親友で後に小説家となる直木三十五も文芸を担当していたという話が伝わっていますが、火鉢を囲んでの座談のようなものだったらしく、講義らしい講義は一度もなかったといいます。

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